私たちは普通、毎日、朝、昼、夕と三回食事をします。なぜか、それが習慣です。そのことについて、あまり考えたことがありません。そのように食べるものだと、子どものときから教えられてきました。「なんでも食べられるものを感謝していただく」ものだと教えられてきました。21世紀の現在において、人々がどのくらい食物に感謝しているのか、私にはよく分かりません。飽食と言われるようになってから、もう久しくなります。それでも、「なんでも食べられるものを食べる」という姿勢は変わっていないかもしれません。食物を供給してくれる人が供給してくれるものを手当たりしだいに食べているように思われます。美味しいものを食べたいという気持ちは、いくらかありそうです。また自分の健康や美容を考えて食物を慎重に選ぶということも最近はあります。でも、それ以外には、何を食べるかに関して私たちは、あまり考えたり選択したりしていないように思われます。
その結果、日本では一人当たり年間約34キログラムの肉を食べています(農水省2021年度食糧需給)。鶏や豚や牛などです。これとは別に魚介類も約23キログラム食べています。これは、よく考えた上での選択でしょうか。私は、違うと思います。
本来、殺したくないのです
少し考えてみましょう。動物を傷つけたり殺したり虐待したりしたら、かわいそうです。どうしてそういうことが分かるのでしょうか。私たち自身が動物だからです。私たちは、傷つけられたくも殺されたくも虐待されたくもありません。
ここで一つ簡単な思考実験をしてみましょう。自分が、真っ暗な夜道を歩いているとします。そして道に横たわっているなにか柔らかいものを踏んづけてしまったとします。柔らかいものは、なにか叫び声を上げ、ふんぞり返って、逃げようともがいているとしましょう。真っ暗なので、柔らかいものの正体は分かりません。叫び声も、なにを言っているのか分かりません。それでも私たちは、「しまった。悪いことをした」と感じるのではないでしょうか。私たちが踏んづけたのは、狸だったかもしれませんし狐だったかもしれません。兎だったかもしれませんし、人間の赤ちゃんだったかもしれません。人間でも狸でも、踏んづけられたら痛いのは同じです。運が悪ければ、死んでしまうかもしれません。万が一死んでしまったりすれば、私たちは「すごく悪いことをした」と感じて、後悔するでしょう。私たちは自分自身が動物で、殺されたくありません。だから、他の動物も殺したくないのです。傷つけられたくないとか虐待されたくないとかいうことについても同様です。
基本的人権からみる基本的動物権
今、私たちは基本的人権を信じています。つまり、すべての人間には基本的人権があると考えています。とはいえ基本的人権と言われるものには、さまざまな権利が含まれます。その中のいくつかの権利──例えば、医療を受ける権利や教育を受ける権利──は、人間が住む社会に相対的になります。また過去の歴史を見れば、基本的人権が尊重されないことも間々ありました。例えば、信仰の自由や表現の自由がない社会、人々に参政権のない社会はいくらもあったでしょう。それでも、絶対に譲ることのできない基本的人権というものがあります。それは、殺されない権利(生命権)と身体を傷つけられない権利(身体の安全保障権)と行動の自由権の三つです。この三つの権利は「絶対的人権」と呼ぶこともできます。これらの権利は、当の人間が賢いかどうかに依存しません。言葉が達者かどうかにも、理性的であるかどうかにも依存しません。赤ちゃんであっても、認知症の進んだ人であっても、殺されない権利や身体を傷つけられない権利や行動の自由権があります。
言うまでもなく、私たちは人間である以前に動物です。私たちは動物として傷つきやすい存在であり、自分らしく生きるためには一定の権利によって守られる必要があります。同じことは他の動物についても言えるでしょう。だから私たちは自分が生きたいように、殺されたくも傷つけられたくも閉じ込められたくもないように、他の動物を殺したくも傷つけたくも閉じ込めたくもないのです。もちろん、このように他の動物についても三つの絶対的権利──これを私は拙著『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』(ナカニシヤ出版)のなかで「基本的動物権」と呼びました──を尊重できるためには、私たちの側に共感力や想像力が要ります。
例えば、たとえ豚や牛が私たちと同じ哺乳類だということを頭では分かっていても、感覚的にピンと来ないということがありうるでしょう。また店頭で売られている肉片をたんなる食料と思い、実は生きた鶏や豚や牛だったということに思い至らないということもありうるでしょう。実際に、店頭は普通、消費者がそのような余計な想像力を働かせないような作りになっています。もし店頭に動物の血や骨や頭や毛があったら、どうでしょうか。お客さんは、あまり肉を買いたくなくなってしまうでしょう。私たちはいつもいつも共感力や想像力を働かせていたら、疲れてはててしまうでしょう。だから考えないように、忘れておくようにするのです。そうしないと、肉を食べられませんから。
英語の言い回しに、「ダチョウが頭を砂の中に隠す」(like an ostrich burying its head in the sand)という表現があります。現実を見ないという意味です。私たちも、鶏や豚や牛や魚が私たちと同じ動物(=生き物)だということを頭では分かっていても、そのことの意味を切実に感じない、忘れる傾向があります。しかし、私たちが鶏や豚や牛や魚のことを忘れたとしても、鶏や豚や牛や魚が殺されたという事実はなくなりません。
生き物と生物
ここで少し脱線するかもしれませんけれども、日本語の「生き物」という言葉について書きます。「生き物」というのは、「生きるもの」ないし「生きているもの」という意味です。日本語の「生きる」は「息」と関係があります。つまり、「生きる」とは「息をする」という意味です。「息」というのは、吸って吐いてする、あの息のことです。ですから、「息を吸ったり吐いたりする」という意味になります。さらに解きほぐせば、「酸素を吸って、それを心臓や血液によって身体の隅々の細胞にまで届け、代わりに二酸化炭素を吐き出す」という活動です。こういうことをするのが「生き物」です。こういう次第なので、日本語の「生き物」は実質的に動物を指します。生物学でいう「生物」は、生命活動をするものという意味なので、「生き物」よりもずっと広い範囲のもの──植物や細菌などが含まれます──を指します。「生き物」と「生物」と、よく似ているので、混同しないようにしてください。
食べないという選択
話をもとに戻しましょう。私たちは子どもだったとき、与えられたものを食べていました。大人になった今、私たちは自分の行動に責任をもち、何を食べるかを自分で考えて選ぶことができます。何を食べるかの選択に際して、私たちは何を考えるでしょうか。美味しいかどうかを考えるかもしれません。自分の健康や美容によいかどうかを考えるかもしれません。環境に優しいかどうかを考える人もいるでしょう。けれども、何を食べるかの選択に際して第一に考えるべきは、犠牲者のことです。店の中で、何を買って食べようかと考えているとしましょう。肉を買って食べるか、そうしないか、それが問題です。肉を買って食べるためには、その前に動物を殺す必要があります。動物を殺して食べる。肉を食べるために動物を殺す。どちらも同じことです。もちろん日本のような現代社会では食べることと殺すことは分業化されています。ですから私たちは動物を自ら殺さないでも、肉を食べることができます。しかしそれは、動物を自分で殺す代わりに、他の人に殺してもらっているにすぎません。動物が殺されるという事実に変わりはありません。このことを考えれば、肉を買って食べるかどうか、答えはほぼ明らかです。肉を買わない、食べないという選択をしましょう。殺される動物がかわいそうだからです。
人間だけではなくて、人間を含む動物一般に、先に述べた三つの絶対的権利=基本的動物権を認めましょう。そうすれば、そこから、肉を食べないという食物選択はかなり容易に出てきます。すでに述べたように、肉を食べるためには、動物を殺す必要があるからです。ところが動物には、殺されない権利があるので、動物を殺すのは間違いだからです。
殺さなければよいのか
肉を食べない選択またその食事法のことを「菜食主義(vegetarianism:ベジタリズム)」と言います。肉を食べないけれども乳製品は食べる選択また食事法のことを「乳菜食主義(lacto-vegetarianism:ラクト ベジタリズム)」と言います。肉を食べないけれども卵は食べる選択また食事法のことを「卵菜食主義(ovo-vegetarianism:オヴォ ベジタリズム)」、肉も乳製品も卵も食べない選択また食事法のことを「純菜食主義(veganism:ヴィーガニズム)」と言います──日本語では「完全菜食主義」と呼ばれることもあります。
肉は通常、動物を殺さないでは、食べることができません。簡単な話です。では、乳製品や卵は、どう考えたらよいのでしょうか。乳製品や卵は、牛や鶏を殺さなくても、手に入れることができます。ですから、乳製品や卵は、牛や鶏の基本的動物権を尊重しながら、食べることができそうです。理論上は、そういうことができそうにも思われます。しかし現実世界は違います。それはなぜでしょうか。
第一に、乳牛や採卵鶏は非常に狭いところに閉じ込められています。第二に、乳牛は子牛を出産した後ほんの数日で子牛を奪い去られ、子牛は母牛から引き離されます。子牛は母乳を飲ませてもらえません。人間が横取りするためです。第三に採卵鶏はすべて雌です。採卵鶏の雄ヒナは、孵化して雌雄鑑別された直後に処分されます。日本では2021年に約1億450万羽の採卵用雌ヒナが生まれています。ということは、それとほぼ同数の雄ヒナが処分されているということです。それだけの犠牲の上に卵が供給されています。これだけの理由からでも十分に、牛や鶏は権利侵害され搾取されていると言えます。もし牛や鶏にも基本的動物権があると考えるならば、牛や鶏の権利を侵害して生産される乳製品や卵は食べないという選択をすることになります。これが、肉だけではなく乳製品や卵も食べない純菜食主義の論理です。
動物のあらゆる搾取に反対する
ただし、純菜食主義の論理は食事法に留まりません。先に述べてきた、動物に三つの基本的動物権があるという考え方を、「動物権利論」と呼びます。動物権利論は動物に、殺されない権利、身体を傷つけられない権利、行動の自由権を認めるのですから、動物を殺すな、動物の身体を傷つけるな、動物から行動の自由を奪うなと主張します。つまり、動物を現在行われている虐殺や虐待や監禁から解放せよ、という主張です。ですから、動物権利論は動物解放論という主張にもなります。ということは、動物権利論の含意は、肉や乳製品や卵を食べないということに留まりません。人間が動物を虐殺し、虐待し、監禁している場面は、他にもあります。ですから動物権利論は、例えば皮革製品にも、動物実験にも、動物園・水族館にも、競馬にも、狩猟にも、漁業や魚釣りにも反対します。
では、動物を殺さない場合、しかも動物を虐待もせず、動物に十分広い行動空間を保障している場合は、どうでしょうか。これは例えば、「人道的な畜産」「動物に優しい畜産」と呼ばれるような動物利用です。例えば羊毛業は、どうでしょうか。羊毛であれば、羊を広いところで飼育し、羊を殺しも虐待もしないで毛を刈りとれそうです。たしかに理論的には、そういう可能性があるかもしれません。しかし羊毛業の場合でも現実世界では毛を刈りとった後、非常に若い年齢で羊を殺します。これは、牛や豚や鶏でも同様です。ですから結局、動物権利論は、「人道的な畜産」「動物に優しい畜産」にも反対します。
このように純菜食主義の論理は食事法に留まりません。基本的動物権のあらゆる侵害に反対し、基本的動物権を侵害する搾取的な動物利用のすべてに反対します。その意味で、純菜食主義は「脱搾取主義」と呼ばれることもあります。この呼び方には、「動物権利論」や「動物解放論」という言い方に比べて利点が一つあります。「動物権利論」や「動物解放論」という表現では「動物」に焦点が当てられているので、その「動物」に人間が含まれることが忘れられがちです。他方、「脱搾取主義」という表現は、「動物」と限定されないので、「動物を搾取するのを止めよう」という意味だけではなく「人間を搾取するのを止めよう」という意味合いも十分に含んでいます。そこから純菜食主義=脱搾取主義は、搾取工場や不公正な貿易、児童労働、人身売買などに反対することにもつながります。
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このように書くと、「うわぁ、大変だぁ」と感じる人がいるかもしれません。たしかに私たちの時間は有限なので、一人で何でもかんでもできるわけではありません。また動物実験に反対する、児童労働や人身売買に反対すると言っても、具体的に何をしたらいいのか、直ちに明らかではありません。けれども今日からできることはあります。まず、肉や魚、乳製品や卵を食べない選択をしましょう。その上で、動物実験その他の問題についても、各自のできる範囲内で考えればよいでしょう。
肉や魚、乳製品や卵を今日から一切食べないというのは難しいと感じる人もいるかもしれません。その場合には、まず小さな一歩を踏み出しましょう。今日、小さな一歩、明日また小さな一歩という具合に改善を重ねて行きましょう。行動を改善するにつれて、心も成長します。後ろめたい気持ちを感じながらではなく、心から「いただきます」「ごちそうさまでした」と言えるようになります。
浅野孝治
あさの・こうじ 豊田工業大学特任准教授。一九六一年兵庫県生まれ。東北大学文学部卒業、同大学大学院文学研究科哲学専攻博士前期課程修了。テキサス大学オースチン校大学院哲学科博士課程修了。哲学博士(テキサス大学オースチン校)。専攻は哲学・倫理学。著書に『因果・動物・所有――一ノ瀬哲学をめぐる対話』(共著、武蔵野大学出版会)、『いまを生きるための倫理学』(共著、丸善出版)、『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』(ナカニシヤ出版)、翻訳書にH・スタイナー『権利論――レフト・リバタリアニズム宣言』(新教出版社)など。