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動物倫理からみる肉食

何が「存在」を「道徳的存在」たらしめるのか

動物が必要なのはもっと基本的で、

人間ならばあまりにも当たり前すぎて権利とすらいえない類のものである。

それはただ単に生存することができるという意味の生存権であり、

正当な理由なく監禁されたり苦痛を与えたりされない権利である。

動物倫理学という学問

 ヴィーガンや動物倫理という言葉も最近よく聞くようになってきた。しかし両者の関係は必ずしも正確に理解されているとは限らない。

 ヴィーガンはヴィーガニズムの実践者で、ヴィーガニズムは一切の動物利用を拒否する思想運動である。そのため、ヴィーガンの究極根拠は、動物は利用されるべきではないという価値判断である。

 ではなぜ動物は利用してはいけないのか、その理由を明確にする必要がある。そのためには、人間は動物をどう取り扱うべきかという問題を学問的に考究しないといけない。そうした人間と動物への倫理的に適切な係わり方を問うのが動物倫理学である。

 本稿ではそのような動物倫理学の観点から肉食の問題を捉え返すとどうなるのかを手短に概説する。

 動物倫理学とは動物に対する倫理学的考察である。従って動物倫理学は倫理学の一分野ということになる。

 さて、倫理学とは倫理または道徳についての学問であり、倫理や道徳というのは日常的な用法にも示されている通り、「人間にとって望ましくなすべき物事とは何か」を明確にし、人間がなすべきことを具体的に整序付けて説明しようとする学問である。倫理学が人間はどう生きるべきかを問う学問である限り、その考察範囲は、人間的な事柄に終始する。

 これに対して動物倫理学は、考察対象が人間および人間が作り出した人工物や制度であるような通常の倫理学と異なり、人間とは異質な「他者」である動物を考察対象としていて、独特な理論領域を形成している。

 この点で動物倫理学は環境倫理学と類似している。自然環境は動物と同様に人間に対して「他者」であり、人間とは独立して人間以前にも存在している。人間は環境を自分に都合の良いように作り変えようとするが、自然環境それ自体は人間が存続できる前提として人間以前にめあるものである。

 しかし環境倫理学と動物倫理学には違いもある。環境は広義にはそこに住まう生命も含むが、環境それ自体は生命なき無機物である。これに対して動物は生命であり、しかも植物や微生物とは異なる「独自の質」を持った生命体である。

 それは動物が感覚を持ち苦痛や快楽を感じるような生物だということである。これに対して植物や微生物は苦痛を感じることはなく、自己意識がないために自我もない。このことが意味するのは、無機的な自然という意味での環境は、動物とは異なり道徳的存在ではないということである。

 道徳的存在とは、正当な理由なくその存在が害されてはならない存在であり、原則的にその存続が保障されるべき存在である。

 ある存在が完全に破壊されれば、その存在は存続できない。人間ならば身体が完全に破壊されれば死に至る。そして人間を正当な理由なく殺すのは端的に不正であり、人間の生存は原則的に保障されるべきである。

 一方で無機的な自然は違う。岩を砕くことを「岩を殺す」とは言わない。岩は人間と異なり道徳的存在ではないからである。

道徳的存在とは

 では、何がその「存在」を「道徳的存在」たらしめるのか?

 それはその存在が、害されたり破壊されたりすることを嫌がるかどうかである。嫌がらないのならば、その存在にとって害ではない。例えばある人の肩にトンボがしばらくとまっていて、気づかない内に飛び去ったような場合、トンボはその人間に何の害もなしていない。これに対して、トンボではなく蚊が血を吸ってかゆみが生じた場合は、吸われた人間には明らかに害が生じている。それは我々がかゆみを嫌がるからである。だから嫌がるということは、その存在は自らが害されていることを自覚できていることを意味する。その存在が害を自覚できて、実際に自覚できるような害が生じたときに、その存在は害されているのである。つまり、そうした害を受け、それを嫌だと自覚する存在が道徳的存在ということになる。

 このことから、無機物のみならず生物一般も道徳的存在ではないということになる。植物は生物であるが、自らに与えられる害を自覚することができない。植物は痛みを感じず、苦痛を自覚できる個体的存在者ではない。従って植物は道徳的存在ではない。

 道徳的存在であるためには、その存在は苦痛を自覚できる必要がある。だから、動物であっても中枢神経がない場合は苦痛を感じることがなく、自らに与えられた害を自覚することができない。植物と類似した存在ということになる。

 勿論、動物の中でどの存在が道徳的存在であるかないかを正確に線引きすることは難しい。しかし人間にとって馴染み深く、「動物」という日常語で指し示されるような存在は犬猫が典型的なように、明確に苦痛を感じ、自らに与えられる害を自覚しこれを避けようとする存在であり、まごうことなき道徳的存在である。

動物に対する配慮義務と種差別

 ここから、動物倫理学は人間同士の関係を対象としないという意味では環境倫理学と同じだが、環境倫理学が人間という道徳的存在と環境という非道徳的存在の関係を問うのに対し、人間という道徳的存在と動物という道徳的存在の関係を問うという点で異なる。

 しかし動物というのは通常の倫理学で想定される人間と異なり、自らの責任で選択的に善悪を為すような存在ではない。そのため動物倫理学では人間と動物の関係は人間同士の関係のように対等で相互的なものではなく、人間の側が一方的に働きかけるものであり、善行の義務はに人間にのみ課される。これは人間でいえば幼児や、教育や啓蒙によって知的に成長することが原理的に不可能な人々、例えば重度障害者のような被後見人に類似した位置に動物が来るということになる。赤ん坊は何らの義務を果たすことはできないが、その存在が守られるべき権利的存在であり、赤ん坊の権利の実現はそれを保護する大人側に一方的に課される。

 こうして人間は動物に対して、赤ん坊に対してと同じ理由で道徳的に配慮する義務が生じる。しかしこれは多くの人が違和感を覚える帰結ではないか。赤ん坊や障害者に配慮するのは分かるが、なぜ動物にまでそうした義務が課されるのか。それは過重な負担ではないかというのが、現地点での平均的な市民感情ではないかと思われる。

 しかしこれは種差別である。

 ある存在が道徳的存在であるのは、それが人間だからではなく、苦痛を感じ、自らに与えられた害を自覚できる存在だからである。人間であるかどうかは定義に含まれない。それなのに、同じように条件を満たすのに人間のみを認めて動物を認めないということは、人間をただ人間であるというだけの理由で優遇するということになり、種差別に当たる。

 これは人種差別と同じ論理である。人種差別もまた、自分たちと同じ人種でないというただそれだけの理由から生じるに過ぎないからだ。現在の常識では人種差別は悪いとされているが、動物差別はなんら問題ないとされている。しかし同じ論理構造であり、人種差別が悪いというのならば種差別も批判しなければ首尾一貫しない。

 人類は人種差別を明らかに悪いと考え、この正しい理念を常識化することができた。だが、本当の意味での差別撤廃の実現はまだ道半ばである。人種差別と同質の種差別は常識化できていないからだ。だから種差別を人種差別同様に常識化することが、今後の人類史的課題となる。

種差別をどう乗り越えるか——生存権の尊重

 とはいうものの、種差別を自覚しこれを積極的に退けようとするのは非常に困難である。それは動物倫理学の歴史自体が実例となっている。

 動物を蔑視し、これに独自の価値を認めないという根強い伝統の中にあっても、動物を擁護しようという潮流はごくかだが存在した。そうしたか細い流れが現代の動物倫理学の源流となる貴重な知的遺産となったのだが、こうした先駆者にあっても支配的だったのは、人間を動物よりも尊い存在と位置付けた上で、しかし動物にも人間と共通する面を見出し、動物への憐れみを誘うというような論調だった。人間と動物の共通性といっても本質的な同質性ではなく、人間という高次存在に対する低次存在と位置付けた上で、下位の存在に対する施しとして動物への扱いを考える、というような論調が主流だった。

 こういう思考様式からは、種差別というような論理は出てこない。種差別というのは明らかに人間と動物の本質的同質性を前提にした議論だからだ。本質的に同じだからこそ差別が問題になるのである。

 現在の動物倫理学は、動物関連科学の現代的展開を前提に、人間と動物の「生物としての同質性」という科学的知見を常識化した上で議論が展開されている。そのため種差別というかつてでは考えられなかった概念がむしろ、議論の出発点になっている。そしてこの種差別批判こそが、現代倫理学を以前の人間中心的な先駆的思潮から分け隔てる前提ともなっている。

 こうして現代の動物倫理学は種差別批判を前提とした透徹した論理にもとづき、動物を動物というだけで蔑視する常識的風潮に異を唱えようとする。動物もまた人間と同じ地平で等しくその価値が図られ、本質的に同質な存在として、人間と同様な道徳的配慮が求められると考えるのである。

 勿論同様と言ってもまったく同じではない。動物に人間同様の権利が求められるとしても、その具体的内容は大きく異なる。

 教育や政治参加の権利は人間には必須だが、動物は学校に通うことも投票することもできない。読書によって教養を高めるようなことは動物にはできないし、動物に本はいらない。

 動物が必要なのはもっと基本的で、人間ならばあまりにも当たり前すぎて権利とすらいえない類のものである。それはただ単に生存することができるという意味の生存権であり、正当な理由なく監禁されたり苦痛を与えたりされない権利である。

 人間を正当な理由なく監禁したり殺したりするのは議論の余地のない不正だが、動物では違う。人間は同じ人間に対しては常識的に忌避されている抑圧を動物に対して行なっている。罪もない者に苦痛を与えるのは端的な不正だが、何の罪もなく苦痛を与えられ殺されるしい数の動物がいる。その代表が食用動物である。

肉食をどうするか

 食用動物は人間が食べるために飼育され、殺される。そうした中には、食肉処理場に送られる直前まで食性に合った餌をふんだんに与えられ、監禁されることなくのびのびと運動させられ、殺される際もなるべく苦しまないように処理されるような動物もいる。

 しかしそのように生産される肉は少数の例外であって、平均的な価格で販売される通常の食肉はそうではない。それらは大量の需要を満たすための「量産品」であり、工業製品と同じ論理で作られている。販売競争で勝ち抜くために低コストで大量生産されているのが、現在主流の食肉である。動物に配慮してなるべく苦痛を与えないようにすれば、コストがかかり過ぎて商品としては著しく不利になってしまうのだ。

 しかもそうした「動物に配慮した肉」というのが、必ずしも「美味しい肉」になるとは限らない。人の味覚は多様なので普遍化はできないが、一定の傾向はある。一般的に硬い肉よりも柔らかい肉が好まれ、脂身の少ないパサついた肉よりも脂肪の乗ったジューシーな肉が好まれる。しかしこうした肉は、動物に配慮していては作れないのである。肉というのは動物の筋肉である。筋肉なのだから、十分に運動して健康であると引き締まる。しかし引き締まった筋肉は固すぎて美味しくないのだ。

 勿論味覚は多様だから、咬み切れないくらい硬くて弾力がある肉が好きだという人もあろう。しかし同じ動物の肉でそうした種類と舌の上でけるような柔らかくてジューシーな肉が同じ値段で売っていたとしたら、前者を選好する消費者はほとんどいないだろう。

 特に日本においては、誰もが日常的に肉食をするという習慣が一般化したのが第二次大戦後に過ぎず、伝統的には肉食文化とは言い難い。そのためもあってか、魚と類似した柔らかい食感が好まれる傾向がある。霜降り肉が典型である。だから、動物を思う存分に運動させてはいけないのである。運動不足にさせることによってこそ、消費者が好む柔らかくてジューシーな肉になる。霜降り肉の「霜」とは脂肪であって、筋肉に沢山の脂肪が差し込まれることによって成り立つ。動物を運動不足にさせて不健康にしなければできないような肉なのである。

 こうしたことから、食肉にする動物の飼育形態は狭いところに閉じ込め、ひたすらに肥え太らせ、肉が固くなる前に成長のピークで肉にするというのが一般的になる。これは霜降り肉に限ったことではなく、安価な牛肉でも消費の嗜好に合わせた柔らかい肉にするために普通に行なわれていることである。

 動物をその名の通りに十分に動き回らせないことによって苦痛を与えて飼育し、本来の寿命よりも遥かに短くその生を遮断するというのが、今日主流の肉食生産の実態ということだ。このことが意味するのは、肉食は明らかな悪だということである。

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 ではどうするべきかだが、悪なのだからそれは無くなるべきだし、極力なくすようにするべきということになる。

 ただし「必要悪」というのもある。肉もまた必要悪ではないかという疑問もあるだろう。

 仮に肉からでしか得られない必須栄養素があるとしたら、肉食をしないのは極めて危険であり、肉食は必要悪として存続されるべきである。しかし、肉にのみ含まれる必須栄養素などなく、肉から得られるすべての栄養は他の食品からも得られるというのが、現代栄養学上の常識である。

 こうして肉は必要悪ではなくて単なる悪であり、肉食という文化自体が無くなるのが最善ということになる。

 しかしこれは現地点では空想的である。ベジタリアンやヴィーガンは増えてきたものの、肉食習慣は極めて強固であり、地球人口の多数がベジタリアンに、ましてやヴィーガンなるというのは夢物語だろう。

 しかしだからと言って肉食が無くなるのは原理的に不可能というわけでも、実現可能性が皆無というわけでもない。確かになおマイノリティではあるものの、ベジタリアンやヴィーガンのように自覚的に肉食を拒絶するようになった人々はすでに無視することのできない数になっており、特に若い世代での増加率が著しいからだ。

 とはいえ、いくら理論的に正しくても、直ちに実践に移せないのが人間というものである。アリストテレスに言う「アクラシア」(意志の弱さ)である。特に、食というのは保守主義がもっとも発揮される領域と言ってよい。実際、頭では肉食の弊害が理解できても、だからと言って実際に肉食習慣を捨てられるという人は少数である。

 そこで求められるのは、人口の多数にとっては肉食を辞めるのは困難だということを前提にした上で、脱肉食の運動をどう進めていくかという具体的展望である。

 今すぐヴィーガンにならない限りは認めないという極論も不適切だが、週一回だけ肉食を止めればそれで十分だというのも妥協のし過ぎである。ヴィーガンになるべきという原則を堅持しつつも、不十分であってもヴィーガンになろうという努力を尊ぶというようなバランス感覚が、運動を広げていく上では重要だろう。

田上孝一

たがみ・こういち 1967年東京生まれ。社会主義理論学会事務局長、立正大学人文科学研究所研究員。専門は哲学・倫理学。法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了。2000年博士(文学)。著書に『実践の環境倫理学』(時潮社)、『本当にわかる倫理学』(日本実業出版社)、『マルクス疎外論の視座』『環境と動物の倫理』(ともに本の泉社)、『マルクス哲学入門』(社会評論社)、『はじめての動物倫理学』(集英社新書)など。