『他者の靴を履く―アナーキック・エンパシーのすすめ』から学ぶ、いまを生きぬく想像力

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キャッチーなタイトルをまとった本書。サブタイトルには「アナーキック」「エンパシー」。
最初に手に取ったときには、そんな馴染みのない言葉に直感的に怯んでしまった私がいた。しかし読み終えたいま、まるでレジャーランドのアトラクションを乗り終えたような、清々しい爽快感に包まれている。

前作とのつなり――“つなげて考える”ということ

著者は、イギリス在住の保育士でライターのブレイディみかこさん。2019年に出版した前作『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』がベストセラーとなり、注目を浴びた。
『ぼくは〜』は、著者が住むイギリス・ブライトンでの生活や「元底辺中学校」に通う息子君との日常を、生活者の視点(著者いわく「地べたからの視点」)からつづったエッセイ。著者はこの本で、日々のなにげない「地べたからの視点」を人種差別・貧富の差・多様性・アイデンティティといったマクロの視点へつなげ、英国社会や人間の普遍的な問題を提起した。そこに描かれるのは、日本でしか暮らしたことのない私の想像を絶する、英国社会の「ワイルドな」日常だ。

その本のある章に、4ページだけ登場した言葉に読者達から熱いリアクションが相次いだという。その言葉は「エンパシー」。
シーンはこう。著者が息子君に「今日の試験でどんな問題が出たの?」と尋ねる。その日、息子君のテストに出題されたのは、「エンパシーとは何か?」という問題。
そして彼が出した答えは、「自分で誰かの靴を履いてみること(To put yourself in someone’s shoes)」。

自分で誰かの靴を履いてみること!!
ここで私は、全身に風が吹き抜けたような感覚を覚えた。ぐっときた。
そして考えた。「あれ? シンパシーとの違いは何だっけ?」「そもそもエンパシーって何だっけ?」……。

私のように思考をめぐらせ、頭が熱くなった読者は多かったようである。
しかし、この反響は著者にとって想定外の事態。安易に「エンパシー万能」という考えに結びついてしまうのは著者として不本意な気がして、さまざまな議論がある「エンパシー」を簡単に語ることへの危機感のようなものを覚えたという。そこで、もっと深くエンパシーを掘り下げて、自分なりに思考した文章を書こうと出版された「大人の続編」が、今回紹介する『他者の靴を履く』である。

シンパシーとエンパシー

「シンパシー」と「エンパシー」。このふたつを混同している日本人は、私も含めて少なくないようだ。なぜかというと、どちらも日本語に訳す際に、「共感」とされうるトラップがあるから。
しかし、本書によると、両者の定義は以下のようになる。

シンパシーとエンパシーの定義

シンパシー(sympathy)
1 誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと
2 ある考え、理念、組織などへの支持や同意を示す行為
3 同じような意見や関心を持っている人々の間の友情や理解

エンパシー(empathy)
他者の感情や経験などを理解する能力
(『Oxford Learner’s Dictionaries』)

つまり、シンパシーは、感情や行為や友情や理解といった人の内側から自然に湧いてくるもの。一方のエンパシーは「能力」であって身につけるもの。その点が両者の明確な違いであると解説されている。

ちなみにエンパシーの定義にはいくつかの種類があるというのが定説のようだが、本書で著者が取り上げているのは「コグニティヴ・エンパシー」というものだ。

コグニティヴ・エンパシーとは

・自然に対象に寄りそったり、入り込んだりするのではなく、
 意図的に自分と他者の違いを担保しながら他者の視点をとり、
 自分以外の人間の考え方や感情を推し量る能力
・その人の立場だったら自分はどうだろうと想像してみる知的作業 のこと。

私たちが、経験や訓練によって高めることができる想像力であるともいう。

シンパシーとエンパシー。身近な例を考えてみる

と、説明されているものの、ふわっとしていてイメージがつかみづらい。
そこで、例えば、と思う状況を自分なりに考えてみた。こんな感じ。

女子会の席で、アラサー友人マル子が愚痴る。
聞けば、パートナーが彼女の誕生日をしっかり忘れていて、後日、マル子からつっついてようやく思い出したという。ショックを通り越して、ぷりぷり怒っている。

このとき、マル子の話を聞いて、私の中にパッと浮かんできたものがシンパシーだと思う。
「よりによって節目の歳を忘れられちゃって切ないなぁ、かわいそうに、そりゃ怒りたくなるよね」
これは話を聞きながら素直に浮かんだ主観的思いであり、感情とともに内側から自然にわいてくる思考のプロセスだ。
そして「うん、うん、わかるわかるー、ひどいねー」と、相槌を打つ。

一方のエンパシーはというと、もうワンクッションあって、一歩踏みこんで想像してみるイメージ。
まず、「自分の靴」を履いた「わたし」が考える。「私たちはアラサーの身。昔だったら、些細なことにもショックを受けたり反応していたけど、今は何かとどっしりかまえていられるようになったよな。年の功というやつかな。それにしても、男性はよく記念日系でやらかす生き物だ(ジェンダーバイアスごめんなさい)。まったくしょうがないなー」。こう考えて笑い飛ばすのが「わたし」。

次に、(自分の靴を脱いで)友人マル子の靴を履いてみる。
「そういえば、マル子は前のパートナーと誕生日忘れられ事件で破局しているから、敏感になってしまっているのかもしれない」「今回の誕生日にプロポーズをしてもらえるのかもと期待もしていたから、一層がっかりしているのかも」「私の誕生日もいつもお祝いしてくれるから、誕生日をとても大事にしてきた人なんだよな」……。
と、マル子の視点から、マル子の考え方や感情を想像する
その作業そのものやその結果出てきた上のような考えがエンパシーだ。

さらには、「パートナーさんは、きっととても忙しかったのだろう。もともと予定や記念日を管理するのが苦手なタイプなのかもしれない。今後はできるだけ気をつけてくださいね」と、会ったこともないマル子のパートナー氏にエンパシーを発動させ、エールを送っている自分に気づくというオチが付くかもしれない。

「他者の靴を履く」ということ

著者は続ける。

靴とは、自分や他者の人生であり、生活であり、環境であり、それによって生まれるユニークな個性や心情や培われてきた考え方。他者の靴を履くとは、その人になったつもりで想像力を働かせてみること
他者の靴を履くという行為は、自分以外の人に何が起きているか、つまり自分の外側(=社会)で何が起きているのかを知ろうとする行為


これを読んで、まず始めに私の頭に浮かんだのは、片方の足には自分の靴、もう片方には他者の靴を履き、自分と他者の感覚の間を行ったり来たりしながら想像してみるイメージだった。
しかし、それでは足りない、と著者は書いている。

自分で自分の靴を意図的に脱いで、他者の靴を履いてみる」ことが必要だ、と。
片足だけでなく、両足とも他者の靴を履いてみる。なるほど、履いてみている体自体は「わたし」なのだから、片方の靴だけでは中途半端だ。「自分の靴を脱ぐ=自分の型から外れる」ことから、「想像する」ことが始まるということなのだと感じた。
自分の靴を脱いで他者の靴を履くことで自分の無知に気づき、これまで知らなかった視点を獲得することもできる。自分の成長・進化のためのスキルでもあると思う。

とはいえ、自分がなければ、他者を想像することはできない。
自分軸が強すぎてもいけないけれど、ほどよくしなやかな自分軸を維持しながら、他者の靴を履いてみることがポイントではないだろうか。それに、他者の靴を履いているつもりが、自分の靴のまま他者の領域をずかずか歩いているだけという状況になることにも注意が必要である。履くべき靴をまちがえていないかを点検する視点も必要そうだ。なぜなら、「わかった気」になることが引き起こす問題は、さらなる問題に連鎖するリスクを抱えているからだ。
ほら、最近でも思い当たるふしはないだろうか。「国民の立場に立って」と語りながら、「国民の靴」を履くことができていない、もしくは履きちがえている、あの政治家たち……。

あらゆる概念から自由になってみる

とはいえ、いつどんな場面でもエンパシーを発動させればよい、というわけではない。
著者も「エンパシー万能説」には警鐘を鳴らしている。
いわく、エンパシーとアナーキーは必ずセットである必要がある、という。

どういうことか。
ここでいうアナーキーとは、現代社会やその価値観、さらには自分自身を縛るあらゆるものから自由になること、つまりは「わたしがわたし自身を生きる」というようなことをさす。

エンパシーに長けていると思われる人でも、もしもアナーキーがともなっていなければ、状況によっては、誤ったエンパシーで自己を失ったり、エンパシーを寄せる対象に自分の意見やアイデンティティを譲渡してしまう危うさがある(それが強烈なものだったり権威的なものであればなおさら)。
とくに悪政が行われている場合には、エンパシー体質の人々は「権威」にエンパシーを発動させ、結果、支配され続ける可能性があるという。「そうなると、エンパシーに満ちた社会はたいそう抑圧的な場所になる」。

「アナーキーという軸をしっかりとぶち込まなければ、エンパシーは知らぬ間に毒性のあるものに変わってしまうかもしれない。両者はセットでなければ、エンパシーそれだけでは闇落ちする可能性がある」

反対に、「民主主義が実践されている空間では、どのような場所でもエンパシーを容易に育むことができる」と著者は続ける。
つまりは、少なくとも思想や選択の自由が保障されている民主主義国家の日本にあっては、特別な環境でなくても、本人の意識によって想像力を育むことができるはず、ということか。

エンパシーの不在とSNS

そんな民主主義国家で暮らす私たちにとって、さらに大切なことは、私たち自身が、自分のまわりの身近な世界でも「民主主義」を確立していくことだ。

現代の社会は、小さな端末から世界とつながることができるし、つながっているような気になれる。
それは良いことでもあるが、一方で、生身の人間とかかわらなくても生きていける(ような気がしてしまう)環境の中で、自分中心的な「内向き」の思考が増え、他者の姿があいまいになっていくように思う。

ネットの世界では、私たちは少なからず、あふれる情報に踊り、踊らされるものだ。
本の中で、著者はSNSをこう表現している。

「匿名性が他者を1人の人間として見られなくなり、エンパシーが機能不全になるもの」
「シンパシーの「いいね!」はたくさん押して、押されているのに、エンパシーの荒野になりがちな場所」

ずばり、その通りだと思う。エンパシーが空洞化する場所、とも言えるかもしれない。

そもそもエンパシーは能動的に発動させるものだ。しかし、つねに疲弊している現代人は、そもそも発動させるべきエネルギータンクにエンプティマークが灯っているように思う。エンパシーの機能不全は、SNSの世界だけでなく、実世界でも多発していると言っても過言ではなさそうである。

ここでも著者は、「他者の立場や感情を慮るエンパシーがなければ、異なる者たちが共生している〝あいだの空間〟で民主主義を立ち上げることは不可能。民主主義とアナキズムとエンパシーは密接な関係で繋がれている、というか、それらはひとつのものだと言ってもいい」と、エンパシーとアナキズムの共存を強調する。

「わたしがわたし自身を生きる」ために、アナーキーでエンパシーある空間を作り合い、そこで表現・議論し合い、育み合って前に進んでいくことが、著者の言う「アナーキック・エンパシーのすすめ」にあたるのではないかと思う。

エンパシーを育む力

さて、エンパシーは、経験や訓練によって高めることができる想像力とのことだが、そういえば、私たちはどのように想像力を高めてきただろうか。また、高められるのだろうか。

本書によると、イギリスでは、感情を他者に正しくコミュニケートする能力を高める教育が行われているという。
例えば、託児所では部屋の壁にさまざまな表情をした人の写真を貼り、これはどんな時にする顔かを子どもに問い、他者の表情や仕草からその感情をおおよそ正しく想像する力を養う。さらに「ルーツ・オブ・エンパシー」というプログラムを導入している学校もあり、そこでは、「赤ん坊からエンパシーを教わる」をテーマに、生後2〜4カ月の赤ちゃんとその親が3〜4週間ごとに9回にわたって教室を訪れ、赤ちゃんの感情を想像して話し合うのだという。公立中学校でも、演劇という科目がありその力を高める教育がなされているという。

日本ではどうだろうか。私が受けてきた教育が日本代表と言えるかは甚だあやしいが、少し振り返ってみる。
幼いころは、家や学校だけでなく、周りの大人たちから「人の気持ちを考えなさい」「相手の立場に立って考えなさい」というようなことをよく言われていたように思う。私の友人たちも、このセリフはよく言われて育ったと言っていた。それが想像力の訓練になったのだろうか(いま考えると、とても抽象的な表現で、具体的な部分は子どものセンスとスキルに委ねるようなセリフであるが)。

小学校時代、私は道徳の授業が好きな子どもだった。はっきりとは思い出せないが、教科書を読んで、登場人物の気持ちを考えてみましょう、といったことをしていたように記憶している。あれは日本版のエンパシー教育だったのかもしれない。正解というものがない問いを、ああかもしれない・こうかもしれないと、みんなでじっくり考えてみる時間が好きだった。クラスメイトが口にする、自分には無かった視点や考え方に触れ、刺激を受けるのも楽しかった。

中学・高校は進学校だったためか、残念ながらそういった機会は無くなったが(勉強はするが授業は極限までサボるという、先生泣かせのアナーキック学生生活をしていたせいかもしれないが)、大学で再びその機会を得た。ゼミである。
小学校時代の道徳の時間と違って、ゼミでは壁にぶち当たった。それは、自分の感情や思いや考えを、思うように言葉にできないという壁。幼いころは日記や作文が好きで、言葉を紡ぐことは得意なほうだと思っていた。だから、自分で自分に驚いた。受験のための勉強、机上の勉強が中心である日本の学校教育の弊害かもしれない。感じていることや、頭や心に浮かんでいることは確かにあるのに、それらを言葉にできないのである。もやもやが募る。逃げようとしたり、適当に言葉を紡ごうものなら、「ごまかしている」「自分の言葉ではない」と鋭い指摘が飛んでくる。
ゼミでは、その時々のテーマをきっかけとして、想像力を働かせ、「わからなさ」や自分と向き合い、真摯に表現しようとすることにチャレンジした。(私は医療従事者の端くれなのだが)例えば、病院実習をめぐって、「人と向き合うとはどういうことか?」と考え続けた。実習で出会った患者さんや職員さんとのやりとりや、そこで感じたことなどから、皆で想像をめぐらせ、話し合った。患者さんや職員さんの思いや歴史や背景を想像してみて、「向き合う」ことにつなげて考えようとした。

正解は見つからない。ただ、その時の自分たちの答えを出そうと、「わからなさ」に想像力を総動員した。

幸せなことに、ゼミの場には、とことん待ってくれて、一緒に悩み考えてくれて、私を受け止めてくれる先生と仲間達がいた。安心して表現できるという環境は、私にとっては家庭に続いて第2のセキュア・ベースであった。私のエンパシーは、特にはそこで育まれてきたと思う。
そして、エンパシーを育むことと、自分の感情・思い・考えを「言葉にする力」、それらを「伝える力」を育むことも織り込むことが必須だとも思う。

いまできることとして

最後に、新型コロナウィルス禍に生きる私たちの状況を、著者に倣って「地べたからの視点」でながめてみる。
コロナウィルスに感染して苦しんでいる人々、大事な人を亡くした人々、医療現場で戦っている医療従事者たち、緊急事態宣言等の乱発で営業に多大な影響を被っている働く人々……。さまざまな困難な状況に置かれた人々が見えてくる。そして彼らの靴を履き、想像力を働かせてみる。

どのような行動をとるかはその人次第だし、正解も不正解も無いのだろう。しかし少なくとも、路上で飲んで騒いだり、大人数で飲み会をしたりといったことは、到底できないと、私は思う。感染が拡大する今、もし、あらゆる人が、「他者の靴を履いてみる」を実践したとしたら、状況はきっと今より良くなっていくのではないか。なぜなら、今の終わらないコロナ禍は、ウィルスのせいだけでなく、自分の行動の先を想像できていない人々にも責任があると思うからだ。

* * *

私には、仕事においてよく思い返す言葉がある。かつての上司がよく言っていた、「プロフェッショナルに必要なのはテクニックとハートです」。これまでの私は、「ハート」とは「情熱」とか「血の通った心」といったものだと考えていた。でも、本書を読み終えた今は、それらに加えて「エンパシー」も含まれていたのだと確信している。

引用が多用されており、終始頭が忙しくなるが、これまでの自分・今の自分と向き合わせてくれる1冊だ。まずは前作の『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』で、ミクロからマクロを小気味良い語り口で表現する著者のテンポを味わってから、本書にてエンパシーとの邂逅の旅にいざなわれることをおすすめしたい。